押絵羽子板 西山 鴻月

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nisikie1.jpg 「羽子板」、これはいつの時代からあった物だろうか詳しい事はわからないが、室町時代の書物に初めて見える。永享4年(1433)正月「御所において宮様公卿女官達が紅白に分かれて羽根突に興ぜられた」と記録がある。宮中ではお正月に必ず羽根突きをしてその年の健康を祝いました。現在でも女の子の誕生の初めてのお正月には羽子板を贈る風習が全国各地に残っています。

 「押絵」とは後世の押絵細工ではなく表具の貼絵の技法で、宮中の公卿女官達の趣味として衣類の残り布を材料として屏風、香箱等に装飾として使われ当時の上流社会において流行、江戸時代には庶民の間に普及した。

nisikie3.jpgこの「押絵」と「羽子板」がいつ頃その別々の歩みの中で融合したのか。時は江戸中期文化文政の頃(1800)江戸では大平の世の中、庶民の娯楽の第一が「歌舞伎」でした。そこで名優、人気役者の舞台姿を「押絵」の技法で作り、おめでたいとされていた「羽子板」に入れ販売したところ江戸庶民に人気を得て、その後明治、大正、昭和、平成の現在に至る。

 押絵羽子板作りは歌舞伎の所作事を多く主題とし荒事、和事、舞踊など芝居の筋、演じる役者の心を読み取って作り上げる。



西山 鴻月 / 作品

押絵羽子板 / 工程

 名 前:西山 鴻月
 工芸品:押絵羽子板
 住 所:墨田区向島5-43-25  
 略 歴:昭和37年 東京都墨田区向島生まれ

昭和55年 高等学校卒業後、押絵師 桜井秋山氏に入門。その後、父である初代 西山鴻月に師事。現在に至る
 同 年  第一次「江戸伝統工芸職人訪中団」団員として訪中
昭和59年 フランス・ニースにて父と共に羽子板展と製作実演披露
昭和60年 米国、ロスアンゼルス市において「羽子板親子展」開催
昭和61年 東京サミットの折、西ドイツコール首相夫人ハネローレ女子当工房を見学。
      実演披露をし、後に羽根突きに興ぜられ帰途に羽子板をプレゼントする。
昭和62年 松屋銀座アートギャラリーにて「伝統の技二代 羽子板父子展」開催、平成13年まで連続15回
平成 元年 自宅に「羽子板資料館」開設
平成 2年 米国・ニューヨークほかで羽子板の製作実演披露
平成 3年 米国・ニューヨーク、ワールド・トレードセンター内で羽子板の製作実演披露
平成 6年 東京都知事より「東京都青年優秀技能賞」受賞
平成12年 松屋銀座にて「正月の室礼三人展」開催
平成14年 名古屋ノリタケの森ギャラリー「百年物語・七人展」開催
平成18年 「東京都伝統工芸品産業後継者知事賞」受賞
平成19年 「墨田区優秀技能者」表彰
 同 年  すみだマイスター認定
 同 年  写真集『押絵羽子板』出版 初代 鴻月・和宏共著
平成26年 11月『鴻月』を二代目として継承



仕事のこだわり:押絵羽子板は大半の物が「歌舞伎」の芝居を題材にしています。「舞踊」「時代物」「和事」など一口に歌舞伎と言っても様々な物語があります。仕事をする前に最も大切なことはそう言った「生の歌舞伎」を観劇することが大事だね!その役者さんの表情や仕草をいかに見て実際に作りとげていくか、作り手として最も面白い所ですよ。今でも歌舞伎はよく見に行って勉強するようにしています。(チケット代は父親持ちで)

 私が羽子板を作るにあたってのこだわりは見に行った芝居を頭に浮かべながら一貫した作業で行っていく。よくテレビ、ラジオ、雑誌等の取材で「どこの部分が一番難しいですか?」なんてお決まりな質問が出るけどいつも答えは「どの工程も気を抜かずにやっています。」と言います。ここが難しくてここが簡単なんて物作りにはありゃしない。一つ一つの基本がしっかりしていて初めていい物が完成する。

 このホームページを見てくれている君達、今度の夏休みの自由研究の宿題で何か作る事があったら、こんな思いで作ればいい「自分の作品にこだわりをもって」。これで金賞間違いなし!

 

■ 少年時代

 生まれた時から羽子板中・・・。そんな家の長男に生まれたのがそもそも運のつき。職人の家なんてものは家族みんなで仕事をして成り立っている。俺の仕事は小学一年生のある日突然やって来た。小さいながらもお店があった我家では毎朝学校へ行く前に店を開き、おもてと店を掃除する。適当にやろうものなら怒られる。今考えてみると当たり前のことで、お店に来るお客さんにまず気持ちよく羽子板を見てもらう第一歩だからね。何か家の為になりたいと思った頃でした。

nisiyama3.jpg 小学校高学年になると父親も人使いが荒くなってきて色々な事をやらされたんだ。

 印象に残っている事は父親の描いた羽子板の顔を大きな人形屋さんに持って行く。そのお店で羽子板を完成させて売る為だ。千葉市にある大きなお店でよく行っていたねぇー。帰りには代金のお金をお腹に巻いて家に帰って来る。その時はすごく緊張しました。このお金で俺たち家族が生活できるんだからと思うと感謝の心が生まれてくるね。  写真:昔から続けている剣道

 こんな事が多かったので学校が終わって友達が遊びに迎えに来てもいつも返事は「今日は仕事があるから」。ちょっと辛い時もあったけど悪い事ばかりじゃない。手伝いをしていると相手の人からお小遣いをもらう事がしばしばあった。当時(30年前)の100円~1000円ほど。特にさっき書いた千葉のお店では社長さんの奥さんからよく頂きました。その後、そのお店に行く時は必ず奥さんを捜してお会いするように決めていました。(子供の知恵)

 中学一年の夏休みこのお店で10日間アルバイトをやる事になりました。朝9時から夕方5時まで大人と同じ仕事をもくもくとやりましたね。働く事はとても大変な事だと思った中一の夏でした。給料で腕時計を買った記憶があります。いい思い出でした。

 我家の年中行事のメインイベントは12月に浅草寺で開かれる「羽子板市」があります。学校から帰れば即直行。大人を相手に商売をする。これが結構楽しい。ご祝儀をもらって「三本じめ」。今思うと少年時代は大人の世界に少しばかり顔を突っ込んでいましたね。その中で一生懸命やっている俺に大人達も声援を送っていたかもしれませんね。

■ 職人になるきっかけ

 そんな家業を手伝いながらいろんな事を学びましたが気がつけば高校三年生。「進学か就職か?」これまでの文章では書いてありませんでしたが昔から勉強の方は非常に苦手で即働く方向で決定!しかし、どんな仕事が希望なのか自分でもわからなかったのは事実です。学校の求人広告も一生やっていくような興味のある仕事も無く、働くことは好きだったんですが何をしていいかわからない。

 そんな時、父親のすすめで川崎にある羽子板職人に四日間お世話になる事になりまして今まで家業の手伝いは結構してたけど実際に羽子板を作る事は無く少し不安だったが騙されたと思って行ってみました。作ってみるとやはり難しい。ちなみに俺は昔から手先の方はあまり器用ではなく、机の前で一日中じっとして物を作るのはあまり得意ではない事に気づきましたが、そのとき作った四本の羽子板が12月の羽子板市で見事売れてしまいました。お客さんも「いい羽子板だ!」と笑顔で言っていた事は今でも覚えていますがちょっと複雑な気持ちでした。

nisiyama1.jpg それとちょうど同じ時期に「手仕事」「職人仕事」が急に世の中で見直されて我々にも光が差し込み始めてきました。今まで家の六畳の仕事場でこつこつと仕事をしていた職人達が皆さんの前で手仕事を見せたり作品を見て話をしたりとこんな事が起こりつつありました。考えてみると私も父親が朝から晩まで羽子板作りをしている姿しか幼い頃から見た記憶がありませんでしたが父の仕事が世の中に認められ始めてきたならやってみようかという気にもなってきましたね。

 人が生きて行く時、何か仕事をしなければなりませんがもし自分の手で作り上げた物をお客さんが喜んで買っていってもらえる仕事があるとすればそれを一生の仕事にして行くことはとても素晴らしい事ですね。そんな仕事が今目の前にあったのです。

 羽子板はお正月や女の子の初めてのお正月にお祝いとして贈るとても縁起のいい物です。実際、いい羽子板を作るには長い年月がかかりますが努力すれば何とか自分でも出来るのではないかと思ってこの道に入りました。「仕事」とは「事を仕たてる」。一本でもいい羽子板を皆さんに見ていただいて喜んで買ってもらえるよう頑張ろうと思いました。  写真:作業場にて

■ 職人になってから現在

 高校を卒業して職人一年生。まず初めに父親の勧めで静岡のある職人さんに弟子入り、一応職人修業が始まった。行く前に父から昔の修業時代の弟子のあり方を教えられ早速それに挑戦。朝六時半に起きて玄関の掃除、仕事場へ向かい師匠の机の整理、ぞうきん掛け、朝食をとって八時半から何と夜十時まで。結構厳しかった。週に一度休みはあったが友達もいないし、周りは山と海ばかり。一日中海を見てた。

 羽子板作りを一から教えてもらいそんな毎日が続いた三ヶ月目、師匠と奥さんがダウン。聞いてみると二人共に70歳を越えた老人宅に18歳の少年が一緒に住み始め何だか疲れきったらしい。特に奥さんは朝昼晩の大量の食事を作らなくてはならずそれが原因で寝込んでしまった。後から聞いた話だが近所で一番ビックリしたのはお米屋さんだったそうだ。結局私の修業は三ヶ月間で終りを告げた。

nisiyama5.jpg それから先は父親が師匠になったわけですが同業の先輩や父に早く技術が追いつくように頑張っていた頃ですが、この頃には手仕事が皆さんにかなり受けいられるようになっていました。半人前の私も全国各地に羽子板作りを見せに行てお客さんと話をする楽しさがありました。挙句の果てには日本文化を紹介する為に海外へもよくデモンストレーションに行くようになりました。日本人だけでなく外国人にも作品を通して話が出来るような時代になりつつありました。父が言うには自分が体験した時代を考えると素晴らしい時代になってきたようです。

 そんな中私が最も記憶に残り現在でも心にとめておく事がありました。21歳の時、とある百貨店で羽子板実演をしている際、ある老夫婦がやって来て聞くとお孫さんの初正月に羽子板を贈ると言う。まだこの仕事をして三年程の私だったがきっと一生懸命仕事をしていたのでしょう。そんな姿を見て「あなたの作った羽子板ならばまだ話の出来ない孫に私達が健康ですこやかに育って欲しいと言う願いがあなたの羽子板を通して孫に語りかけてくれるような気がする。」と言われた。私は感動~!現在も父と共にそんな羽子板を一本でも多く作っていきたいと願い仕事する毎日です。  写真・父と共に

■ 職人哲学

 まだ職人として20数年しかたっていないのでこの道50年、60年の諸先輩ほど重みのある事は言えませんが最近よく思う事は、一言でいうと「ご縁を大切に!」ってことかな。なかなか人間一人じゃ生きて行けないし、いろんな方との「縁」で自分自身が成り立っています。「親子の縁」「学校の友達の縁」や「会社の同僚との縁」、いろんな所にありますね。だけどこれからの人生、時には「悪い縁」も多くあるかもしれませんがその時ははっきり自分の意志でその「縁」を断ち切る事も大切です。そうした中で「生きる力」を身に付けてくれれば嬉しいです。私もこの仕事をして多くの「良縁」が生まれました。皆さんに「良き縁」がありますようにお祈りいたします。

nisiyama4.jpg そしてもう一つは昔から「温故知新」という言葉があります。「古くをたずね、新しきを知る」と言う意味です。 私達日本人は古くから良き伝統や風習がありますね。「お正月」があり「桃の節句」や「端午の節句」又、各家庭の伝統行事などそういったものをおじいちゃんおばあちゃんから学び、それを自分のものにしていく私達職人はそんな思いを心の中に入れて日々仕事をしています。そして今の新しい事はおじいちゃんおばあちゃんに教えてあげましょう。そうすれば家族皆が仲良くなれますね。

 最後に父に教わった事ですが職人の仕事は「死ぬまで勉強だよ」。何歳になっても、例えこの道何十年であろうと人が仕事をし続けていく以上大切な言葉であると思います。  写真:趣味はスキー

■ 私の目標・夢

 一本でも皆さんが喜んでもらえるような羽子板を作り続ける事です。出来ればその羽子板を持っている人が健康で幸せな人生を送ってもらいたいですね。その為には私も仕事の技術に磨きをかけると共に私自身「いい人」になる事が目標です。だって、心から「いい人」でなければ皆さんに喜ばれるような羽子板は出来ないと思っているからです。

■ 連絡先

oshiehakoita_ka.jpg氏 名:西山 鴻月
住 所:墨田区向島5-43-25(小さな博物館・工房ショップ)
電 話:03-3623-1305
Blog :http://kougetsu.exblog.jp/